元新日本製鉄会長の武田豊さんは、現役時代、秘書もつれずにラフな姿で、趣味の釣りによく出かけたそうです。
周囲にいる釣り仲間は、この人が天下の新日鉄会長とも知らず、気楽に話しかけ、いろいろな世間話を聞かせてくれたといいます。
武田さんは、肩書きのない人生というのは自由でいいなあと、つくづく感じたそうですが、60歳からの人生は、この自由を満喫できる時期だといえます。
長年、朝日新聞社で重役を務めていた私の知人は、いまでは専門で庭掃除をしています。
ダテや酔狂ではありませんし、身すぎ世すぎのために、いやいや庭掃除をしているのでもありません。
もともと庭掃除が好きで、「朝日新聞社」という肩書きをはなれたいま、やりたいからやっているだけのことです。
彼は、人から頼まれると、喜んでイソイソとどこにでも庭掃除に行き、テキパキと庭をきれいに掃除してしまうそうです。
料金は無料、あくまでボランティアでやっているのです。
長年務めてきた仕事の肩書きが失われることは、たしかに寂しいものです。
人によってはそれがそのまま、脱力感、無力感につながってしまうこともあるでしょう。
定年退職したあとに、自分で、「元00株式会社部長」という肩書きをつけた名刺をつくり、初対面の人に渡している人もいると聞いたことがあります。
しかし、肩書きがなくなるということは、そうそう悪いことばかりではありません。
社会的地位という肩書きがなくなったおかげで、いままでやりたくてもできなかったことが、気軽にできるようになることもあるのです。
肩書きがなくなれば、自由にやれることはけっこう多いものです。
なにも庭掃除などの趣味に限った話ではありません。
それまで世間体をはばかってはいれなかったところでも、気楽にはいれるようになります。
競馬場、競輪場、パチンコ店でも、好きなように行けるでしょう。
いずれにせよ、肩書きという足カセがなくなったぶん、自由を得ることができるということです。
また、べつの意味で肩書きがなくなることによって、新しい可能性を開くこともできます。
たとえば、それまで自分が勤めていた会社から離れることによって、足カセがとかれ、これまで考えていてもできなかった、新しいビジネスをはじめることもできます。
そういう形で、新しい会社をつくって、これまでの仕事を発展させて、新しい仕事と関わっていくこともできるでしょう。
いつまでも肩書きにこだわっていては、新しい人生を見つけるのがむずかしくなるばかりです。
もともと、自分の持っていた肩書きは、自分の力でつかんできたもののはずです。
それをはずされたからといって、すべてを失ってしまうかのように感じるのはおかしなことです。
これまでの肩書きを築いてきたのと同じように、新しい肩書きをつくっていけばいいのです。
年をとってから過去ばかり見ている人は、どうしてもよかったころの肩書き、地位にこだわりたがるようです。
過去の栄光をなつかしんで、後ろばかり見ているようでは、これからさきに残された可能性に、日をつぶってしまうことになります。
現在の自分をしばる過去の地位や肩書きが消えたときこそ、これから新しく得られるものに注目するチャンスが与えられたときなのです。