私が20年来つき合っているある税理士は、ひじょうに人間的な魅力に富んだ、不思議な人です。
風流人で、和歌をたしなみ、書と同時に絵も描かれます。
ちょっと話をしているあいまにも、感慨が浮かぶとサラサラとみごとな草書で、和歌を書かれ、絵を描きます。
そのさまは見ていてなかなか魅力的で、ああ、私もこんなことができたらなあと、いつも思わされています。
率直にいって、彼の税理士としての腕前は、かならずしも一流とはいえないかもしれません。
それでも彼の人間的な魅力にひかれて、20年以上もおつき合いを願っています。
一芸どころか、二芸、三芸を磨いた彼には、仕事上のおつき合いを越えた、人間的魅力があるというわけです。
私たちには、定年後、裸の人間的魅力がどのくらいあるのでしょうか。
地位や肩書きから離れて、ただのミスター00となったときに、どれだけの人をひきつけられるのでしょうか。
そう考えるとまさに定年後の生活というのは、余生どころか、人間としての修行、自分の生き方の真価が問われる総決算のときとしても、重みを持つ生きがいのある時期なのだと思うのです。
日本人ほど会社、肩書きに執着する国民はめずらしいでしょう。
サラリーマンの名刺の肩書きはもちろんのこと、会社のなかでも、個人名は無視して、「課長」「部長」「係長」などと役職名で呼びます。
これは、かつて軍隊のなかで、「上等兵どの」「軍曹どの」と呼んだのと、まったく同じ感覚です。
日本社会では、この肩書き、会社名こそもっともモノをいう武器なのです。
しかし、この肩書きという武器も、定年以後はまるで無意味になってしまいます。
そうなってはじめて、地位や肩書きを離れた人間的魅力がクローズアップされることになるのです。
ところが、この日本では地位、肩書き抜きの純粋な個人的魅力で、人間関係をつくっていけるという人はひじょうに少ないようです。
年後、名刺から肩書きや会社名を抜いてしまったら、何も残らないという人が多いのです。
この点、欧米では個人がひじょうに重視されます。
会社のなかで相手を呼ぶときも、肩書き抜きの個人名で呼び合います。
相手の肩書きを呼ぶのは、せいぜい、「ユア・マジェスティ」などというときぐらいのもので、大統領でさえ「ミスター」で呼んでしまいます。
ですから地位、肩書きを誇示するための名刺は、日本ほど重要視されていません。
ところが、私たちの定年後の生活は、まさにこの肩書き、会社名なしのミスター00の生活なのです。