先日、中学時代の同窓会に行ったところ、前の席にずいぶん老け込んだ老人がいました。
いったいなんの恩師だったか、まったく思い出せないのです。
私も少々頭の回転がにぶくなったかなと、隣の席の友人に、「あの人、なんの先生だったっけ」と聞くと、「何をいってるんだ、彼は同級生の00君じゃないか」といわれて、唖然とした経験があります。
これとは対照的に、私がお世話になった先生で、もうすでに90歳を越える高齢でありながら、依然としてかくしゃくたる人がいます。
いつだったか、「いやあ、先生、いつまでもお若いですねえ」というと、先生は、「若い人間に向かってお若いですねとは何ごとです。
お前はオレのことを年寄りだと見ているから、そんなことをいうんでしょう。
けしからん」と、怒られてしまいました。
60歳を過ぎてからの若さには、人によって大きな差が見られます。
「これでもう60歳!」と驚かされるほど、潜刺として若々しい人もいれば、「これでまだ60歳!」と驚くほど、ひどく老け込んでしまう人もいます。
私たちのように60歳を越えた人間の同窓会では、この点、がく然とさせられることがしばしばです。
「社長は、はじめから社長なのではない」という言葉があります。
社長になったばかりのときはまだ慣れずに、社長らしくふるまうことができなかった人でも、周囲から社長として扱われ、本人も社長と字画しそれらしくふるまっているうちに、ほんとうの社長らしく堂々とした態度になるということです。
老いに関しても、同じことがいえます。
要は、自分を若いと思えるか思えないかひとつで、外見も変わってくるのです。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は50歳で亡くなったということですが、いまに残されている肖像画を見ると、とうてい50まえとは思えないほど老けています。
70歳はゆうに越しているように見えるといってもおおげさではない老け込み方です。
芭蕉は自分自身を「翁」と呼び、老成をよしと考え、46歳で『奥の細道』の旅に出るにあたっては、すでに死を覚悟していたといいます。
たしかに、人生50年といわれていた昔では、このような考え方はめずらしいのではないのかもしれません。
50歳は年寄りという、当時の考え方に合わせて、芭蕉も年をとっていったのです。
しかし、現代は人生90年時代です。
芭蕉のように50歳をまえにして、これでもう人生は終わったと老いを受け入れてしまうのは、あまりにも早すぎる考え方ではないでしょうか。