ある作家が週刊誌の座談会で、「最近の若い女性に望むことは?」と問われ、こう答えたのがいまでも印象に残っています。
「若い女性に望むことなんてありませんよ。
私たちは私たちだけで精いっぱい生きなくちゃいけないから、若い人のことなんか知らないですよ」というのです。
「二世帯同居で、子どもに面倒を見てもらいたい」とか「子どもに遺産を残してやり、子どもといっしょに暮らしたい」などと、遺産、財産がらみで、自分の子どもたちにいつまでも甘えている老年層が多い昨今、この発言はじつに痛快でした。
ヨーロッパでは、親たちは自分の子どもたちに対して、じつにドライなわりきった考え方、生き方をしています。
たとえばノルウェーでは、自分に家屋などの不動産があると、年をとってから子どもに相応の値段で売りつけることが少なくありません。
その条件はさまざまで、「親の生きているあいだに、月にいくらいくらお金をよこすこと」とか、あるいは「即金で何千万円払え」などというのもあります。
これは純然たる契約関係で、もし自分の子どもより有利な条件で買うという人がいれば、その人に売りわたすこともあるといいますから、私たち日本人にはなかなかなじめない考え方のように思われるかもしれません。
フランスあたりでは、「私が死ぬまで面倒を見てください。
そのかわり、私が死んだら、この財産をそっくり差しあげます」などと、新聞に広告を出す人もかなりいます。
すると、実際におおぜいの人が応募してくるのです。
身内ではどうしても情に流され、おたがいに甘え合う部分が出てしまいます。
アカの他人のほうが、おたがい甘えることなく契約関係を保つことができるという、わりきった考え方を持っているのです。
この種の契約では、応募する側からすれば、相手はできるだけ早く死んでくれたほうがありがたいことになります。
そこで、新聞の募集広告を見て応募してきた人は、契約の相手が腰も曲がり、杖をついてヨボヨボの姿をして現れてくるようなら「これなら、さきは長くないな」と喜んで契約していきます。
あるとき、応募してきた人との契約が終わり、応募者が帰ってしまったとたん、いままで腰の曲がっていた老人が、スックと腰を伸ばし、若々しく口笛を吹きながら、自転車に乗って出かけていってしまったという話もあるほどです。
こんな笑い話が出てくるのも、自分の人生のことだからなるべく有利な条件で契約しようという、自分が老後に面倒を見てもらうことに対する、ドライな考え方を持っているからにほかなりません。
アメリカでは、年金を利用して老人専用の低額の食事つきホテルにはいり、ときどき遊びにくる子どもたちと会うといった生活を送る人も多いようです。
子どもたちのために家を買って、そこに同居して面倒を見てもらうという、ウエットな思想はそこには見られません。
たとえ相手が自分の子どもでも、他人は他人、自分の面倒は自分で見るという発想なのです。
ヨーロッパにせよ、アメリカにせよ、子どもに財産を譲るときは、適当な金額を決めてから買いとらせ、あるいは他人に売るかして、自分の面倒を見させるというのが大勢です。
かつての日本では、たしかに大家族のもとで年寄りにも存在する場所はありました。
しかし、現代の日本では、そうしたもたれ合い、助け合う場は、もはや家族のなかにはなくなってきています。
かつての日本の家族制度と比較して、それを情けないこと、寂しいことと思っていても仕方がないでしょう。
それよりも、若い人は若い人で勝手にしなさい、こちらもこちらで好きなようにやると、発想を切りかえてみてはどうでしょう。
子どもに気がねすることなく、好きなように生きられ、昔より自由で楽しく積極的に、自分で選んだ人生を過ごせる気楽な時代になったと、考えることができるのではないでしょうか。
実際、欧米の老人たちが、日本の老人たちより満ちたりた生活を送っているように見える原因のひとつは、子どもからの自立を果たしていることも、大きく関係していると私は思っています。