ある新聞に、ちょっと変わった投書欄がありました。
おもに40代、50代前半の著名人に、若者への文句や注文をつけてもらい、それに対する若い読者からの反論の手紙がくるのを待ち、双方を組み合わせて掲載するというものです。
ある体操の先生がその欄で、「若者よ、立ちなさい」と、苦言を呈したことがあります。
その体操の先生がスポーツ関係者の集まりに出たときに、若い男女の選手は、早くからきて自分の席を確保していました。
その結果、遅くきた年配の人のなかに、座れない人が多く出てしまいました。
そこで、「先輩たちへの礼」をふくめて、「立ちなさい」とひとこといったのです。
その意見に対して、さっそく多くの若者からの反論が届けられました。
要約すると、①年寄りだからといって、席に座れると思い込むのは理屈に合わないのです。
席に座る権利は誰にでもあるはず。
それが公平というものです。
②「先輩だから礼をつくせ」というのはおかしい。
礼をつくすに足る相手かどうかは、個々の識別、判断による、という主張が大部分を占めていました。
つまり、年長者だから席を譲ってもらえるのだと信じ込むのはやめなさい、というのでした。
年輩だからというだけで座れるのが当たり前と考えず、座りたければ、早くきて列の先頭に並ぶなどの努力を払うべきだというのです。
私は、好むと好まざるとにかかわらず、若者のこうした考えが、これからの主流となるだろうと考えています。
社会の通念は、その時代の社会を構成しているメンバーによって変わっていきます。
いまの40代、50代の人が60歳になったとき、さきほどのような反論をしてきた若者たちが、社会の中心メンバーとなります。
そんな彼らもいつかは、「敬老の意識」を持ち、考え方も変わっていくだろうという期待は、あきらめておいたほうがいいと思うのです。
では、どうしたらいいでしょうか。
まず、世の中が変わったことを素直に認めることだと思います。
「昔なら、こうじゃなかった」とか、「いまの若い者は……」と思わないことです。
いまの若者のあるがままをそのまま認め、あきらめてしまうのがいちばんです。
これができないと、いつもイライラしていなければならなくなります。
これは別に、若者に対する意識だけではありません。
自分自身を取り巻いている環境の変化について、同様の気持ちで接したほうがいいと、私は思っています。
人とのつき合いでも「あれだけよくしてやったのだから、これこれするのは当然」という気持ちを持っていると、おおむね裏切られることになりがちです。
これからの人間関係は、他人には干渉しない、されないと、ますますドライな方向へと向かっていくと思われます。
そんな社会では、これまでのように、困ったときはおたがいさま、社会がなんとかしてくれるだろうと考えず、「最後は自分ひとり」という自覚を持ち、社会からの自立がだいじになってくるということです。
自分が生きてきた時代の考え方や常識にこだわって、いつも文句ばかりいっている不平不満老人になっても仕方ありません。
人間は、過去に戻ることはできません。
いまという時間を、精いっぱい生きていくしかないのです。
このように、わりきってものを考えていくことは、自分なりの生き方をはじめるうえで、きわめてたいせつなことだと、私は思っています。