会社を定年退職したあとも、自分ではかの仕事さきを見つけてきて、これまでと同じように、毎日仕事に通っている人が少なくありません。
彼らは、特別仕事が好きで働いているのかというと、かならずしもそうではないようです。
ただ、子どもがまだ学生のうちは、自分が学費を稼いでやらなくてはなりませんし、体が元気なのに働きもせず遊んでいるのは世間体もよくありません。
そこで、自分はまだまだ働くべきなのだと考えているらしいのです。
私たちのまわりには、よく「その件については、00すべきだ」というふうに、べきだという言葉を使う人がいます。
このべきだを生活に取り入れてしまうことについて、マスタベーションという辛辣な言葉を聞いたことがあります。
考えようによっては、しなくてもすむことを、特にやりたいわけではないのだが、ただこうすべきだからやっているのだといって自己満足している人は、まさにマスタベーションをしているということなのでしょう。
精神科医のカレン・ホーニーも、『ノイローゼと人間の成長』という著書のなかでこの問題にふれ、「べきだは、人がそれを実行しようとすればするほど、心のなかの荷をどんどん重くします。
そのうえ、まわりにまで影響をおよぼして、人々のあいだにいざこざを起こすのに一役かっているのである」と、述べています。
自分の生活がべきだに支配されていないか、一度振り返ってみたいものです。
仲間や同僚とはうまくやっていくべきだ、妻をいたわり、子どもたちから頼りにされ、つねに一生懸命働くべきだと、感じているところはないでしょうか。
サラリーマンの日常生活のなかでは、このようにべきだと思い込んで行動しそれが心の重荷になっているケースが意外と多いのではないでしょうか。
また、べきだと、それを義務と考えることで、自分で決断したときと違い、その行為に対する責任をとらずにすむと、無意識に感じているのかもしれません。
べきだと思い込むことは、自分の行動の基準を他人にまかせきりにしてしまうのと同じことなのです。
べきだですべてを解決しようとすると、自分で自分の殻を破るという危険なことをしなくてもすむのです。
自分に自信がないときは、べきだと主張してすませてしまいます。
これを繰り返していると、自分の存在はどんどん薄くなっていきます。
それは、主体性のない生き方にはかなりません。
また、べきだに支配されていると、毎日変わらない単調な義務をこなす生活だけで手いっぱいになり、新しいことを考えたり、行動したりする余裕は持てなくなるでしょう。
べきだという考え方をしていないかを確かめるために、まず毎日の行動をチェックして、一つひとつほんとうに必要な行為かどうか、検討してみてはどうでしょうか。
昔はたしかに〜するべきだったものが、いまでは、必要がなくなっているものもあるはずです。
たとえば、昔は仕事が終わったあとでも、会社の同僚、上司、部下とのつき合いは、ある程度は必要なこととされてきました。
しかし、最近ではプライベートな時間は、なるべく干渉しないという傾向にあります。
べきだという考え方をやめ、主体性を持った考え方ができるようになれば、思考にも行動にも柔軟性ができ、やりたいことをやるゆとりが、いままでよりもたくさん生まれてくるのではないでしょうか。