私がアメリカでしばらく暮らしたときに、ひじょうに印象深く感じたことは、アメリカ人はなにごとも夫婦単位で行動することが多いということでした。
彼らは地域活動にしても、会社の同僚とのパーティーにしても、また、映画や芝居見物にしても、たいてい夫婦でいっしょに行動します。
これは、アメリカ人にとって、夫婦というものは、相手のどちらかが死ぬまで、一生最後までつき合う、もっとも基本的な人間関係であるからにほかなりません。
だからこそ、彼らアメリカ人夫婦は、よく話し合い、議論じ合って、おたがいに相手の話題についていけるよう努力するのです。
妻と夫のあいだで、話題がなくなったときは、もうその夫婦はオシマイだと考えているからです。
ところが、この点日本の夫婦は正反対で、おたがいに話し合うことをあまりしようとしません。
夫は仕事や酒のつき合いで夜遅く帰ってくると、妻の用意しておいたフトンのなかにはいってそそくさと眠り、朝は新聞を読みながら、「おいメシ」の一言だけです。
「いってらっしゃい」「ああ」だけが、その日一日の会話だったなどという夫婦も少なくありません。
とくに古いタイプの夫たちのなかには、なにごとも会社第一で、家は妻にまかせっきり、朝早く出勤、夜遅くまで残業の繰り返しで、妻とはほとんど会話をかわさないといった生活を送っている人が多いでしょう。
ところが、こうしたコミュニケーションゼロの人に限って、妻と自分のあいだは以心伝心で、しっかりと意思が疎通しているなどと思い込んでいる人が多いようです。
こうしたコミュニケーションを欠いた夫婦が、定年を迎え、いざ24時間顔をつき合わせて暮らすとなると、ギクシャクしてうまくいかなくなることが多いのです。
実際、最近では、夫が定年後、妻から離婚されるという悲劇的なケースがあとを絶ちません。
とくに最近の妻たちは、夫が会社に出勤したあとは、カルチャーセンターに通ったり、地元の地域活動に打ち込んだりと、話題がきわめて豊富になっていっています。
そうなると仕事一点張りの夫のほうが、もうついていけなくなっていることが多いのです。
たとえ仕事が忙しかろうが、というよりも、仕事が忙しければ忙しいほど、休みの日などには積極的に、夫婦で行動をともにするようにしてみたり、たとえそれが無理だとしても、とりあえず妻といっしょにいる時間は、積極的に妻との会話を絶やさないようにしてみてはどうでしょう。
ある評論家夫婦のお宅では、奥方が何かいうと、かならず自分が、わざとそれに反論する形で、議論をつくり出すそうです。
たんに相手のいうことに、「あ、そう」とあいづちを打っていれば、会話はそこで終わりですが、こうして「反論ゲーム」をすると、会話はどんどん発展していくというのです。
なんといっても、定年後の人生に、妻や夫の占める比重は、現役時代とくらべものにならないほど大きいのです。
このことに早くから気づいた夫婦ほど、リタイヤ後の人生の使い方が上手になるはずです。